豊島区について

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「豊島区の歴史・文化」 


<区名の由来・区のおいたち>

「豊島」の地名は、古代律令制下の武蔵国の郡名にまでさかのぼることができます。
大化2(646)年、大和政権から東国に派遣された国司の監査報告の中に「豊島」の地名が見え、律令制定下(701年制定)の郡制制定後まもなく郡名に用いられたと思われます。また万葉集には、天平勝宝7(755)年の防人の歌に「豊島郡上丁椋椅部(じょうていくらはしべの)荒虫(あらむし)の妻、宇遅部黒女(うちべのくろめ)」という読み人が出てきます。
そうした古代から続いてきた「豊島」の地名を区名に冠した豊島区は、昭和7(1932)年10月、東京市郡合併により近郊82カ町村が東京市に編入され、新たに20区が設けられた際に誕生しました。
豊島区は、それまで北豊島郡下にあった巣鴨町・西巣鴨町・長崎町・高田町の4つの町が統合されたもので、以降、今日までその区域に大きな変化はありません。そして区名については、4町協議の結果、北豊島郡がなくなることから、この郡の中心にあたるこの区に、その由緒ある名前を残すことが決められ、「豊島区」が誕生しました。


<区の歴史>

■原始時代
 
数千年前の豊島の地は、武蔵野台地の一角を占め、幾多の川が流れていました。その流域の台地からは、縄文時代の人々の生活の跡が発見されています。
明治18年に発見された氷川神社裏貝塚(池袋本町2・3丁目)は、大森貝塚とともに古くから知られた遺跡です。この他、明治年間には旧巣鴨町・上駒込伝中(遺物散布地)、旧巣鴨町・染井墓地(貝塚)、旧巣鴨町・妙義坂(遺物散布地)、旧西巣鴨町・池袋(貝塚)の計5ヵ所の遺跡が発見されています。(『日本石器時代遺物発見地名表』第5版・昭和3年刊より)
こうした遺跡からは、土器のほか、石鏃(せきぞく)・石斧(せきか)・臼玉(うすだま)・管玉(くだだま)などの遺物が出土され、当時の生活をうかがうことができます。
 
 
■古代・中世
 
古代律令制下の武蔵国豊島郡は、現在の台東・荒川・北・板橋・豊島・文京・新宿各区と渋谷・港・千代田各区の一部を含む広大な地域でした。「和名類聚抄」によると、9世紀前半ごろの古代豊島郡の郷名として日頭・占方(白方)・荒墓・湯島・広岡・余戸・駅家の7郷があげられています。現在の豊島区にあたる地域は、この7郷の中心をなした日頭・湯島に含まれていたとされています。
 
中世期、武蔵国をはじめとする東国諸国は、桓武平氏の子孫と称する坂東八氏が所領を抱え、武士団を形成していました。また、その一族庶子は、土地の名前を苗字とし何家にも分立していきました。武蔵国に絶大な勢力を築いた秩父氏の流れをくむ豊島氏もそのひとつです。
そうした豊島氏が歴史の舞台に登場するのは保元の乱(1156年)で、『保元物語』には武蔵国から源義朝の軍に従軍した武士の筆頭として「豊島四郎」の名が記されています。鎌倉から室町に至る動乱期に、豊島氏は武士団を擁して時勢に対応しつつ、在地領主として農業生産力の高い石神井川流域に領地を広げ、現在の豊島・北・板橋・練馬区あたりの広大な地域にその勢力を拡大していきました。
しかし、室町時代後期になると武蔵を守護領国とする上杉氏の勢力が伸ばし、旧勢力は次第に駆逐されていきました。上杉氏の家宰である太田道灌は、江戸城を築城し、豊島領に侵攻しました。そしてついに文明9(1477)年、世に言う江古田合戦(現中野区)に豊島氏は破れ滅亡しました。
今日の豊島区の母体をなした江戸時代の村の多くは、室町後期から戦国時代にかけて「草分け百姓」といわれた人々が土着、開発したものです。太田道灌の死後、上杉氏に代わって関東に勢力を伸ばした北条氏が、その一門と家臣の役高を記した『小田原衆所領役帳』(永禄2(1559)年)に、太田新六郎や遠山弥九郎らの所領として長崎・雑司ヶ谷・大根原・池袋・菅面(巣鴨)・駒込・高田の地名が既に見られます。それらの郷村は、当時はまだ純農村的なたたずまいを見せていましたが、やがて近世の江戸近郊農村として、また街道沿いの町場として、徐々にその姿を変えていきます。
 
 
■近世
 
江戸時代の豊島区は、上駒込・巣鴨・池袋・長崎・雑司谷・下高田に元禄以前に梶原堀之内村(現北区)よりわかれた新田堀之内が加わって7か村となりました。『新編武蔵風土記稿』によると、各村の戸数は巣鴨113戸、新田堀之内30戸、池袋129戸、雑司谷135戸、下高田110戸、長崎59戸の計576戸で(上駒込村は不明)、人口は約3,000人前後であったと推定されます。
 
下高田・雑司谷・巣鴨・上駒込の各村には、大名の下屋敷や抱屋敷が多く見られました。また、巣鴨には御薬園、雑司谷には御鷹方組屋敷、御犬飼小屋がありましたが、その他はほとんどが農地でした。水田は神田川流域の低地、谷端川・弦巻川・谷戸川沿いに多少見られましたが、ほとんどが畑地で、江戸市中へ出荷する野菜の栽培が盛んでした。駒込なす・巣鴨だいこん・巣鴨こかぶ・滝野川ごぼう・長崎にんじんなど産地名を冠した特産品が生産されました。また、駒込の地は庭木栽培に向いており、多くの植木屋が軒を並べていました。特につつじ、さつきの栽培が有名で、品種改良も盛んに行われ一大園芸都市をなしていました。日本を代表する桜の品種「ソメイヨシノ」もここ駒込(染井)の地が発祥と言われています。駒込に続く巣鴨も、菊づくりで知られ、特に趣向を凝らした菊の形作りが評判を呼び、文化年間(1804~18)には江戸市中より菊見の人で賑わうようになりました。
やがて、江戸市街地の拡大とともに、純農村的なたたずまいを見せていた村の姿も次第に変容していき、中仙道など街道沿いに町場地域がつくられはじめました。18世紀半ば頃には駒込七軒町・駒込妙義坂下町・駒込三軒町・巣鴨町・雑司ヶ谷町・高田四ッ家町・および真性寺・本浄寺・鬼子母神の各門前が成立し、町奉行所の管轄下に組み入れられました。これらの村・町には複数の領主がいて、幕領・寺領(増上寺・伝通院・麟祥寺など8か寺)・旗本領(1640年代、池袋8家・長崎3家)が入り組み、郡代・代官の支配下のもとで名主・組頭などの村役人・町役人による行政が行われていました。
 
 
■明治時代
 
東京府成立のころ
明治元(1868)年7月、江戸は東京と改称され、中心部に東京府がおかれました。同年11月に東京府域が拡大され、長崎村をのぞく豊島区地域は武蔵知県事の管轄下から府に編入されました。長崎村は明治2年に大宮県に編入されましたが、同4年の廃藩置県後には府に編入されました。また、明治23(1890)年には三多摩が府に編入され、ほぼ今日の東京都域が形成されました。
新時代の到来により様々な改革が進められる一方、当時の豊島区地域は依然として武蔵野の原野が広がり、農家が散在する光景は、江戸末期と変わりがなく、わずかに中山道に沿った巣鴨と、雑司ヶ谷の鬼子母神が賑わいを見せていました。
近代化へ
明治11(1878)年11月、東京府に郡区町村編成法が施行され、中央部に15区、周辺部は荏原・東多摩・南豊島・北豊島・南足立・南葛飾の6郡が置かれました。それまでの豊島郡は南北に二分割され、現豊島区地域は北豊島郡に属しました。この時の北豊島郡は、ほぼ今日の豊島・板橋・練馬・北・荒川の各区にあたり、北豊島郡役所は下板橋に置かれました。
さらに明治22(1889)年5月には、東京府に市制町村制が施行され、中央15区を東京市とし、府知事が市長を兼任しました。豊島区を含む郡部でも大規模な合併が行われ、現豊島区域は巣鴨町・巣鴨村・高田村・長崎村の4町村に整理されました。
当時の豊島区はまだ江戸の面影を色濃く残していましたが、明治18年3月、日本鉄道の赤羽-品川間が開通し、目白駅が開業して以来、池袋-田端間の開通と大塚・巣鴨・池袋駅の開業(明治36年)と進み、山手線の発達とともに移住してくる人々も多くなってきました。また明治40年代に入ると、豊島師範学校の開校、学習院、大正、立教大学の区内への移転が相次ぎ、豊島は次第に学生の街としての姿を整えていきました。
 
 
■大正時代
 
大正年間に入ると、東上鉄道(大正3年)、武蔵野鉄道(同4年)が開通し、池袋は交通の重要拠点となり、郡部に新たに住宅を求める市民が大量に流入し始めました。さらに関東大震災(大正12年)が、これに拍車をかけ、市近郊の本格的な市街地化がいっそう進みました。
そんな中で、巣鴨村が大正7(1918)年7月、西巣鴨町になり、高田村は同9年4月、長崎村は同15(1926)年10月に、それぞれ町制が実施されました。そして、当時の区内人口は20万をこえるほどに増加していました。
昭和から平成へ
豊島区誕生から太平洋戦争へ
震災後、郊外の市街化が進み、昭和5年の市部人口207万人に対し、郊外は296万人を数えました。そこで、近郊町村に都市計画による施設整備の完備した大東京市の実現を求める機運があがり、昭和7(1932)年10月、東京市は隣接5郡82カ町村を合併、市域が拡張されました。
この新市域には新たに20区が置かれ、その1つとして、巣鴨町・西巣鴨町・高田町・長崎町の4町が合併し、豊島区が誕生しました。区役所は、池袋1丁目642番地(現東池袋1丁目18番1号)の旧東京府荒玉水道組合役場跡に開庁しました。しかし、この新区は東京市制下にもとづく法人区で、区会を持つ一応の自治区でしたが、区長は市吏員から市長が任免し、市政の制約下にある出張所的な役割をも担っていました。また、自治立法権・課税権・起債権は新東京市が持つことになったため、ある意味では町会が町長を選んでいた時代よりも、身近な自治権が後退したとものになりました。
昭和18(1943)年7月、東京都制が施行されました。その直前の昭和16(1941)年12月に日本は太平洋戦争に突入しており、戦時下の東京の国家統制はますます強いものになっていきました。行政末端組織として町内会、隣組が強化される一方、地方自治権の縮小がいっそう進むことになりました。都制(官制)の施行により、府・市は廃止されましたが、区は法人格のまま東京都の区に移行しました。区長は都の書記官をもってあてられるなど、区は都の内部団体として位置づけられ、戦争遂行、帝都防衛のため自治権が極圧されました。そして、この状態は終戦まで続きました。
 
 
■戦後-自治権拡充の道のり
 
昭和21(1946)年9月、戦後の一連の民主化政策により、地方制度全般にわたる改正が行われました。東京都制も一部改正され、首長の公選、議会権限の拡充などが実現、都は国家の一機関から自治団体へと移行しました。
都制の改正により、区も初めて区民の権利義務や区の事務に関しての条例規則を制定しました。また、区税の賦課徴収、区債の発行、区長公選(実際は自治法施行まで官吏)など自治体としての基本的諸権能が付与されました。翌22(1947)年3月、35区は統廃合され22区(同年8月練馬区が板橋区から分離して23区)になり、また同年5月、憲法の施行と同時に地方自治法が施行され、大都市制度として特別区が設けられました。これにより、東京都の区は特別区とされ、特別地方公共団体として位置づけられ、市に準じた自治体となりました。
昭和27(1952)年8月、自治法の改正により、区長公選の廃止をはじめ特別区の自治権は大幅に制限されました。これは、都の大都市行政の統一的、能率的な処置を確保することによって都民の福祉の増進を目的とするものでしたが、区が再び都の内部団体化する要因をはらむものでした。
昭和39(1964)年には、都の事務をできるだけ特別区に移管することを目的に、特別区の権能を拡大する改正が行われました。また、都区間の連絡調整をはかるため、都区協議会が法定設置され、今日の都区財政調整制度も設けられ、翌年4月施行されました。その後、区長公選復活を軸とする自治権拡充運動の結果、昭和49(1974)年6月の特別区制度の大改正によって、翌50(1975)年4月から区長公選が復活されました。同時に、昭和22(1947)年の自治法制定時から設けられていた都配属職員制度も廃止され、区は再び独立した自治体としての地位を回復しはじめました。
こうした自治権拡充の動きの中で、豊島区は副都心池袋を中心に大きく発展してきました。都市基盤の整備を進め、昭和56年「豊島区基本構想」を制定、翌57年「豊島区基本計画」を策定し、区民福祉の向上をめざして計画的な区政運営を推進しました。また、区制50周年にあたる昭和57年7月には、23区で初めて「非核都市宣言」を行いました。
平成へ-基礎的自治体としての旅立ち
バブル崩壊からの社会経済情勢の急激な変化は、区政運営の上にも大きな影響をもたらしました。そうした中、効率的な区政運営をめざして行財政改革を推進する一方、時代に対応した施策の方向性を明らかにするため、平成7年「豊島区基本構想」、同9年「豊島区基本計画」を新たに策定しました。
平成10(1998)年4月、地方自治法が改正され、ついに都区制度改革が実現しました。これにより、同12(2000)年4月より、清掃事業等の事務が都から区に移管され、豊島区は地方自治法上の『基礎的自治体』に生まれ変わりました。
そして現在、区民に最も身近な自治体としての責任とその役割を担い、また21世紀の「新生としま」の創造をめざして、豊島区は新たな一歩を踏み出しました。